タイのアユタヤには、日本人町が栄えた時代(16-17世紀頃)がありました。
その日本人町は、アユタヤ島の南側、パサック川とチャオプラヤー川が交わった地点から
チャオプラヤー川を南へ、少し(約2kmくらい)下った東岸にありました。
(下地図赤丸印)
そして、
日本人町の対岸(西岸)には、
ポルトガル人町がありました。
最初の訪問は、2000年にタイに仕事で赴任した時です。
その時は、、石碑と山田長政の像しかなかったと思います。
ここは、本当に日本人町だったと言う証の展示もなく、
2度と来るものかと思っていました。
しかし、なぜ2度目の訪問をしたのだろう。
自分でも理由がよくわかりません。
2009年に改めて訪問した時には、
新たにアユタヤ歴史研究センター別館が建っており、
決して大きな展示場ではないですが、
アユタヤの歴史が良くわかる展示がありました。
そして、日本人に関係する歴史を知ると、国際貿易都市だったアユタヤが好きになれると思います。
注:
日本人町にあるのは、アユタヤ歴史研究センター別館で、本館はアユタヤ島内にあります。
また、アユタヤ歴史研究センター別館は、2007年に大々的に改装と
説明があったので、前からあったのかなー?
アユタヤ歴史研究センター別館内にあった
日本人町の説明です。
山田長政について:
駿河国出身の山田長政は、アユタヤの
ソンタム王の寵愛を受けていましたが、
ソンタム王が崩御すると
王位継承争いの中で疎まれ、
南タイの平定を目的とし
Nakhon Sri Tammarat(リゴール=六昆)へ
左遷されます。
そして最後には、毒殺または負傷が元で
1630年に亡くなりました。
アユタヤの地図の展示です。
フランスは、1687年に
シモン・ドラ・ルベール率いる使節団を
アユタヤに遣わしました。
そのシモン・ドラ・ルベールが著書の中に
描いた地図です。
Japponaisと言う文字が見えます。
そして、その背後には、主要建築物を含めて描かれた国際貿易都市アユタヤの絵が展示されています。
最も反映した頃の絵なのでしょうか?
展示物は、多くはありませんが、この絵を見ただけで、ここに来て良かったと思ってしまいました。
(でも、人によっては、もしかしたら退屈な場所なのかもしれません。すみません。)
外に出て、
日本人町跡から、Chao Phraya川上流方向を見たところ。
日本人町跡から、Chao Phraya川下流方向を見たところ。
下流からタグボートに引かれた艀(はしけ)が登って来ます。
下流からタグボートに引かれた艀(はしけ)が近づいて来ます。
昔から海運に利用されたChao Phraya川では、良く見る風景です。